ナマで踊ろう
らしくないな。
それが坂本慎太郎の『ナマで踊ろう』を聴き終えての感想だった。
僕はゆらゆら帝国の熱心なファンであったとは言えないけれど、彼らの音楽は常に「ここではないどこか」に連れてゆく、アナーキーでロマンチックな音楽だったと記憶している。社会の外側にある、危険で甘いとても魅力的な快楽をひたすら追求した本物のサイケ・バンドだったはずだ。
それがどうしたことか、坂本慎太郎が『ナマで踊ろう』でわざとらしいほどに回りくどく描写するのはいまここの「2014年現在の日本」だ、しかも極めてポリティカルなメッセージを添えて。
「あえて抵抗」する
現在この国で政治的なアルバムを出すミュージシャンなんて殆どいない。「NO NUKES」というギターストラップを付けて歌番組に出ただけでニュースになるような国ではリスクが高いからだ。僕もそうだが、政治的なアルバムというのはどうしたってそのステートメントと作品そのものを切り離して考えることができない。(このアルバムがもし右傾化する日本を讃える内容だったら、と想像してみたらいい)。だから誰も彼も社会をすっ飛ばして「僕と世界」を直結させたがるセカイ系の音楽ばかりやっている。
もちろん予想できない方向性ではなかった。去年リリースされた傑作シングル「まともがわからない」の辛辣なメッセージを考えるならば今回のアルバムの内容もさもありなんと言えるだろう。
あたまいたいできごと
まともがわからない
うそみたいな人たち
悪いジョークなんだろ?
しかし「まともがわからない」のイントロのピアノの響きや山下達郎ばりのアーバンなアレンジにぶっ飛ばされ、来たる坂本慎太郎のニューアルバムは蕩けるように甘く洗練されたシティポップを期待していた人は多かったはずだ。しかしそんな期待はアルバムに先駆けて公開された「スーパーカルト誕生」にあっさりと裏切られてしまう。子守唄のようなメロディで歌われているのはこの世界の終わり方についてだった。
2000年前それは生まれ
2年後にこの世は滅びた
この曲の世界観とインタビューなどから『ナマで踊ろう』は「人類滅亡をテーマにした壮大なコンセプトアルバム」と勝手に思い込んだ僕は少し興味を失ってしまった。コンセプトアルバムは嫌いだ。それは僕らに音楽「鑑賞」を強いる。どうしたって物語やテーマが音楽を重くしてしまう。「幽霊の気分で」と軽やかに歌った坂本慎太郎「らしくない」。結局僕は発売後しばらくして立ち寄ったタワーレコードで1枚だけ残った初回限定盤に目がくらんで購入した。
僕の思い込みは正解でも間違いでもあった。コンセプトアルバムと呼ぶにはあまりに身軽だったし、ポップだ。しかし同時にはっきりした意味やテーマを包み隠さず彼は歌っていた。ポリティカルであると同時にそのテーゼに縛られることのない身軽なポップ。そんな不思議な重力を纏ったこの素晴らしいアルバムは、しかしやはり坂本慎太郎「らしくない」。
何がって、そのわかりやすさだ。
まずジャケット、骸骨姿の坂本がスチールギターを膝に置いて座っている。裏ジャケットはもっと露骨にキノコ雲だ。音も歌詞もビジュアルも前作『幻とのつきあい方』の耽美的でアーティスティックな方向とは明らかに違う。
本人が「漫画的」と表現するように『ナマで踊ろう』は過剰なぐらいにわかりやすさで満ちている。その最も端的な例が「あなたもロボになれる」だろう。ともすればNHKみんなのうたで流してもおかしくないメロディーに乗せて「不安や虚無から解放されるという。新しいロボットになろう。弁護士ロボ、魚屋ロボ...」と「義務のように」では洒脱な演奏と気の利いた言い回しでまだオブラートに包んでいたテーマを露骨なほどアイロニックに表現している。
このアルバムのテーマは「くたばれ全体主義」「くたばれ安倍晋三」「くたばれ自民党」「くたばれネオリベ」、それらなんでもいい。とにかく「あえて抵抗しな」かったその人とは思えないほど、『ナマで踊ろう』は2014年の日本という国と「うそみたいなひとたち」に対して中指を突き立てるレベルミュージックとなっている。
かつて「ドラッグでぶっ飛んで辛い世の中サヴァイヴしてこうぜ」と言っていた鶴見済が結局「辛い世の中」を何とかしなきゃと立ち上がったように、サイケデリックな陶酔で向こう側にブレイク・スルーしていた坂本慎太郎も柄にもなく「こっち側」について歌わなければならいほどに事態は切迫している。もはや「見えない敵」とか悠長なことを言ってる場合じゃない。だってはっきりと「めちゃくちゃ悪い男」がいて「恐ろしい仕組み」があるのだ。
『ナマで踊ろう』は政治的「だから」素晴らしいのではない。政治的「なのに」素晴らしい、という日本では忌野清志郎ぐらいしか成し遂げられなかった離れ技を坂本慎太郎はサラッと決めてしまった。
vaporwave的な想像力
坂本慎太郎はインタビューで『ナマで踊ろう』のイメージについてこう語っていた。
昔の常磐ハワイアンセンターとか、ハトヤ温泉とか、ファミリーランドみたいな遊園地でもいいんですけど、そういう人工的な楽園みたいなものを作ろうと思った人達…その人達はもう死んじゃってるんだけど、その人たちの意志や志みたいなものだけが、まだふわふわとこのへんに漂っているような、そんなイメージなんです。
(中略)
もっと具体的にいうと、人類が滅亡した地上で、ハトヤのCMがただ流れている、みたいな。
かつての未来に対するイメージがノスタルジックに感じられる、という捩れを再現するためにバブリーなCMやプレステ、セガサターンなどの音声や映像を使用したのが、ここ数年流行したvaporwaveだった。
VentureX - No One Like You
希望やそれを抱いた人間が消えてしまって、希望の入れ物だけが残った。
そういったvaporwave的な世界観は坂本慎太郎の語ったイメージと共鳴している。このvaporwave的な想像力を全く種類の異なるポップミュージックに落とし込んだのは、少なくともこの国のミュージシャンでは坂本慎太郎ただ1人だ。
このアルバムは楽曲のカラーごとに、ちょうど半分に前半/後半に分けることができる。洗練されていて『幻とのつきあい方』や「まともがわからない」のサウンドの流れを比較的汲んだアーバンな前半。一方「もうやめた」から始まる後半は、それこそ誰もいない商店街や遊園地で流れていそうな陽気で空っぽな(つまりは坂本流vaporな)サウンドの曲が占めている。その極みが最終曲「この世はもっと素敵なはず」だ。
世界が終わったあとのリゾート地のスピーカーから陽気にかかり続けるBGM。そしてノイズとして混じる幽霊たちの声。
幽霊たちの警告
よく見なよ おまえ正気か?
あいつらみんな人形だよ 何も恐れる必要ないのさ
この世はもっと素敵なはず 何も恐れる必要ないのさ
坂本慎太郎「らしくない」と感じた最大の理由は、このアルバムは驚くほど熱を帯びたメッセージを発しているからだ。
例えば昨年リリースされたVampire Weekendの『Modern Vampires of The City』が「若きライオンよ、じっくり時間をかけるんだ」という言葉で締められたように、『ナマで踊ろう』は「ぶちこわせ」という扇動で幕を閉じる。どっちも「まだ間に合う」と僕たちに語りかける。
ネットで頭の弱そうな連中が拡散しているこんな文章を知ってるだろうか。
「今やり直せよ、未来を。10年後か、20年後か、50年後から戻ってきたんだよ今」
ベタだし、恥ずかしいし、単純だし。こんな歌詞を坂本慎太郎が書いたら、それはもう最悪だが、要は『ナマで踊ろう』は遠回しにそう言っているのだ。
スーパー・カルトを、恐ろしい仕組みを、めちゃくちゃ悪い男を、ぶちこわせ。
世界はもっと素敵なはずだ。何も恐れる必要ない。世界を終わらせるな。
終わってしまった世界の誰もいないビーチで漂う幽霊たちは僕らに語りかける。
14年前にイギリスのあるバンドが「子供達を乗せるノアの方舟を作るためのサウンドトラック」というコンセプトで『KID A』というアルバムを作った。自分たちは乗ることのできない方舟を作り終え、「来世で会おう」と約束する場面でそのアルバムは終わる。グローバリゼーションの欺瞞を告発する辛辣な言葉の一方で、音はどこまでも優しく柔らかだった。
『ナマで踊ろう』は方舟が完成する前に滅んでしまった世界に残された方舟と人々の残留思念についてのアルバムだ。
『KID A』がリリースされてから14年。単に電子音をサウンドに取り入れるという表層的な模倣は数え切れないほどあったが、その想像力を押し進めた作品は皆無だった。そして、この日本という「ロック暗黒大陸」で全く違う方法論とサウンドで極めてモダンな『KID A』が複製されたことに、僕は驚きを隠せない。
カモン、キッズ。ぶちこわせ。