いまここでどこでもない

I can't give you all that you need ,but I'll give you all I can feel.

ゴーイング・ゼロから1への飛躍、またはその掌返しについて

(※音楽だいすきクラブの記事からの加筆再掲)

渋谷系って?そう尋ねられたら僕は「海外かぶれでスノッブな連中のスカした音楽だよ」と偽悪的に答えてやろう。この国の偉大なるアンファン・テリブルフリッパーズ・ギターの2人に倣って。

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田中宗一郎渋谷系を「バブルという戦後最大の張り子の豊かさと戯れること」と揶揄し仮想敵に仕立て、中村一義をその対立項として祭りあげた。「僕ははやく1になりたかったですからねえ。ゼロを目指すって歌われても、って感じでした」という中村一義の発言は、フリッパーズ・ギターのラストアルバム『ヘッド博士の世界塔』収録のこの曲に対して向けられている。


だんだん小さくなる世界で僕は無限にゼロをめざそう
止まるくらいスピードを上げてずっとずっと

(ゴーイング・ゼロ)

「ぼくは十分に速くあったろうか」というのは浅田彰の『構造と力』の序文に記された自問だが、『構造と力』に端を発した1980年代のニュー・アカデミズムという浮っついた知的ムーブメントは、人文系における渋谷系と言って差し支えない。共に共通するのは「海外(の思想/音楽)に対する無邪気な憧れ」である。まだインターネットは存在せず、しかし世界中のあらゆる本/レコードやCDが手に入る日本という国において情報は今以上に価値があった。そんなバブリーな時代の「こんな思想/音楽知らないでしょ?」というスノッブな2つのムーブメント。それぞれの代表として浅田彰/フリッパーズ・ギターを挙げて反論する人はまずいないだろう。

さて、その浅田彰が提唱し流行語大賞(!)にも選ばれた「スキゾ/パラノ」というフレーズがある。極めて杜撰な説明するなら蓄積/定住を良しとするのがパラノ人間、消費/逃走を良しとするのがスキゾ人間であり。勿論フリッパーズ・ギター及び渋谷系はスキゾに分類される。膨大なレコードのアーカイブの海を漂い、情報と戯れ、明るいけれどどこか空虚な空気は渋谷系に通底するものである。フリッパーズ・ギターはその空気を「夏休み」というセンチメンタルな言葉で表現した。そしてスキゾ人間の逃走の果てが『ヘッド博士の世界塔』というアルバムであった。

浅田彰現代思想を「トランプのカードのように軽やかに扱う」ように、岡崎京子の『Pink』において主人公の恋人が単行本の文字を切り貼りして小説を書いたように、フリッパーズの2人はビーチボーイズから(当時)最新のマイブラまでの古今東西の音楽をサンプリングという手段を用いて軽やかにどこまでも並列に扱った。あらゆるものがバイナリデータに変換されていく現代社会を予見するかのように、そこにはもはやスノビズムという自意識すら消え失せ、情報の海に自己が飲まれていくような消失の快楽がこのアルバムには渦巻いている。それはスキゾ人間の自殺とも言い換えることも可能だ。ゼロ地点、今この瞬間での微分を繰り返し最終的にゼロとなってしまった。ゴーイング・ゼロ。そんな当然の帰結

消費の限りを尽くしてはじけたバブルの後に、再びパラノ社会に戻ることに警鐘を鳴らし続けた、いや、文句を言い続けたのがライターの鶴見済だった。その最もセンセーショナルな例が1993年に出版された『完全自殺マニュアル』である。

無力感を抱きながら延々と同じことを繰り返す僕たちは、少しずつ少しずつ、本当に生きている実感を忘れていく。生きてるんだか死んでるんだか、だんだんわからなくなってくる。「いきてるんだなぁ」ってどういう感じだったっけ?

(『完全自殺マニュアル』まえがき より)

僕は穏やかに死んでゆく
いつも少しずつ死んでゆく
ひどく穏やかに死んでゆく
僕はやわらかに死んでゆく
言葉などもうないだろう

(世界塔よ永遠に)

そう、鶴見済ほど露骨でなくとも、実際のところパラノ的な表現はフリッパーズの自殺の後もフィッシュマンズやコーネリアら所謂ポスト渋谷系によって延命し表現として洗練されてゆく。では、田中宗一郎が指摘した「ゴーイング・ゼロ」に対しての明らかな対立項は中村一義が最初だったのだろうか?もしくは洋楽を完全に血肉化した所謂「98年の世代」までスキゾキッズ・スーサイドを否定したミュージシャンはいなかったのか?もちろん、そんなことはない。それは『ヘッド博士の世界塔』から僅か2年後の1993年に既に完璧な形で為されている。よりにもよって『完全自殺マニュアル』と同じ年に、しかも更に最悪なことにフリッパーズ・ギターの片割れである小沢健二の手によって。

犬は吠えるがキャラバンは進む/小沢健二(1993)
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犬は吠えるがキャラバンは進む』における小沢健二というミュージシャンのドラスティックな転向について、その理由を探ることは今や不可能だ。彼のインタビューから読み取るにしても限界がある。重要なのはかつて「ゴーイング・ゼロ」と嘯いて全てを相対化した男が、「本当のこと」やその象徴としての「神様」といった絶対化に掌を返したという事実だ。この歌詞とか、最高に面の皮が厚くて最高に最高だ。

ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんて
そんなバカなあやまちはしないのさ!

(ローラースケートパーク)

小沢健二は『犬』リリース前に日比谷野外音楽堂にてフリーライブを行い、初めてソロとしての楽曲を世に放った。彼のファースト・ワルツは後に「カウボーイ疾走」と名を改めアルバムに収録される「サタデーナイト・フィーバー」によって幕が開いた。


ねえ朝焼けにまだ遠く
ねえ冷え切ってるビルの上で歌が歌われてる


ねえ信号を待つ誰か
ねえにわか雨のようにきれいな笑い声立てている


愛について戸惑ってばかりの僕は
BABY BABY BABY BABY BABY
いつだって絡まってばかりだったけど
本当のことへと動き続けよう
生まれ落ちる新しい世界へ


熱がならされて霧が覆う広告
路上ではタクシーが渋滞を罵り続けるだろう
受け入れる心の扉を開き
声を上げて変わりゆく時代


歩道まで散らばって戻らない砂
BABY BABY BABY BABY BABY
名前だけ並べてばかりの彼ら
静かに眠りゆくこの街の中へ生まれ落ちる新しい世界


壁に背もたれている僕の耳に届くのは
終わらないパーティの嘲りふざける大騒ぎ
階段を駆け下り君と感じたい
声を上げて変わりゆく時代


愛について苛立ってばかりのぼくは
BABY BABY BABY BABY BABY
いつだって絡まってばかりだけど
本当のことへと動き続けよう
生まれ落ちる新しい世界へ

(サタデーナイト・フィーバー)

ここで歌われているのはゼロから1への飛躍についてだ。名前を並べて記号と戯れ溺れる渋谷系という文化に対する明確なカウンターとしての骨太なギターサウンドと言葉。「意味」に対する接近と信頼。あまりに痛快で、悔しいがどこまでも感動的だ。そして全く同じことが『犬は吠えるがキャラバンは進む』というアルバムにも言える。

最後に再び『ヘッド博士の世界塔』へと戻ろう。このアルバムはJack Tarr(1930-1961)の小説”Doctor Head’s World Tower”にインスパイアされて作られた。その一節”Don’t be afraid to lose control ..and control is the name of our game.”(主人公とヘッド博士が初めて会う場面での博士の言葉)が、インナージャケットの右上に印刷されている。

「コントロールを失うことを恐れるな」という言葉はナイフとなり、そのままフリッパーズの2人の喉元に突き刺さり絶命させた。そして猿はゾンビが彷徨うかのように渋谷系を延命させ、犬は転生し渋谷系を威嚇した。渋谷系というジャンルは『ヘッド博士の世界塔』というアルバムにより少なくとも一旦は殺されたのだ、自殺という形をとって。

夏休みはもう終わり

(ドルフィン・ソング)

そして小沢健二はその後、90年代的な心理主義に引きこもっている世界に向けて『LIFE』という強烈なカウンターパンチを喰らわせ、ラブソングのフォーマットを借りて黒人音楽にも通じる宗教的で敬虔な歓喜へと飛び込み、その身を晒してゆく。意味から強度へ。平坦な戦場を生き延びるために。

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