いまここでどこでもない

I can't give you all that you need ,but I'll give you all I can feel.

2015年に聴く中村一義

先日、人生で初めてデモに参加してきた。この場合「参加」という言葉を、僕が忌み嫌っている「参戦」と置き換えてもきっと構わないのだと思う。僕はあの日、確かに腹を立てて、声を出しに、文句を言いにデモに加わった。特定の人物に敵意を向けた言葉を叫び、引きずり落とそうとした。勘違いしてほしくないのは、僕はその行為に何らかの負い目を感じたり、暴力の匂いを感じ取って狼狽えているわけじゃないってことだ。僕はあの日、正当な怒りを抱え、正当な言葉で、正当な訴えをした。少なくとも、そのつもりでいる。ただ、それでもやはり僕はデモに「参戦」したとは言いたくはない。戦争の匂いがするからとか、戦いを拒みたいからでもなく、至極単純な話、僕の実感にその言葉がちっともそぐわないからだ。


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デモで僕はある友人と5年ぶりに再会した。よう、と声をかけたものの、お互いなんだか気恥ずかしい。僕は彼とは政治の話はもちろん、どんな真面目な話もしたことがなかった。いつだって音楽か女の子の話ばかりしていた。とりあえず近況を報告しながら、デモについては「やってらんねえよな」とだけ呟いて、やっぱり音楽の話になった。「まだ中村一義とか聴いてる?」「最近また」「わかるかも、俺も」「ていうか、今日ここに来るときも聴いてた」「何を?」「ERA」「嫌いじゃなかったっけ」「うん、でもジャストだった」「それ、嫌な時代だな」「言えてる」、「やってらんねえよな」。あとは昔の彼女の話とか、スヌーザーとかロッキングオンの話とかを話してしばらく一緒に歩いた。今度飲みに行こうよ、なんてありきたりな挨拶を交わして別れる。別れ際に彼がひとこと。「俺もナカカズ聴きながら帰るわ」。やっぱり、よくわかってんじゃん。


僕はずっと彼の『ERA』というアルバムが苦手だった。キンキンしたサウンド・プロダクション、それまでの彼らしくない攻撃的なフィーリング。「ゲルニカ」という曲がその作風を象徴している。



死んだフリ…?
フリ?
なら、死ねよ


ヘヴィ・メッセンジャーとしての中村一義は、もちろん『ERA』以前の楽曲にもその姿を現している。「犬と猫」、「謎」、「魂の本」に込められた怒りや絶望は、おそらく「ゲルニカ」の比ではない。しかし、それらの感情は「あの声」と「あの演奏」によってマスクされていた。とうとう痺れを切らしてストレートな言葉で放たれ時、どういう訳か「魔法」は失われてしまった。「ゲルニカ」に巣食う安直さに対する嫌悪は、「参戦」という言葉に対する嫌悪と同種だ。「表現にとって最も大切なものは形式とニュアンスである」というスーザン・ソンタグの言葉に倣うのなら、どちらもその最も大切なものを放棄した表現のように僕は思う。要は手抜きであり、作家性の放棄だ。中村一義という音楽家には「あらゆる感情に歓喜のフィーリングを宿らせる」という巨大な才能が備わっている。中村一義の「どう?」という呼びかけは、扇動でも挑発でもなく武装解除の合図だった。そんな魔法が『ERA』では封印されてしまっているから、僕はあのアルバムがどうしても好きになれなかった。


それがどういうことか、最近は『ERA』ばかり聴いている。心から愛してやまない『太陽』はちょっと今はしっくりこない。最悪だ。もう悠長に「形式」や「ニュアンス」に拘っているような時代じゃないのだろうか?そんなことはない。SEALDsの存在がその何よりの証明だろう。いつしか僕は以前は気付けなかった魔法の存在を『ERA』に嗅ぎ取るようになった。クソにクソを塗るような笑えないようなことばっかな世の中で相対的に『ERA』にも魔法が宿された、なんてのは随分と都合がいい解釈かもしれないが、そうとしか思えない。


ジョン・レノンを聴くように、中村一義を聴く。ヘヴィ・メッセンジャーとして、愛と平和の使者として、最高のロックンロール・ボーカリストとして。彼らの作るレベル・ミュージックは闘争であると同時に逃走でもある。敵意/敵対を煽るだけではなくて、慈愛とユーモアが宿っている。僕が信じられるのはそんなギリギリに甘さを保った抵抗だけだ。どんな時も笑顔ににじり寄ること。それは、絶対、余裕じゃない。


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中村一義のスウィート・レベル・ミュージック10選


10. 世界の私から
(from『世界のフラワーロード』)

「抗菌の世に住む君へ」という少しドキッとする歌い出し。目を開けるように/外へと踏み出すようにリスナーを誘い出す、まるで春の日差しのような程よくアッパーなオープニング・トラック。ジョン・レノンから中村一義を経て、君へと渡されたバトン。


9. ウソを暴け!
(from『対音楽』)

「犬と猫」21世紀ヴァージョン、だと勝手に僕は思っている。言葉は随分と直裁的になり、演奏もすっかりソリッドになったことで失われたものも確かにある。しかしハイトーンな「どう?」には変わらず魔法が宿り、ひどく心を揺り動かされてしまう。荒野に痛みの雨は降り止まないけど、博愛さだけは忘れてしまわぬように。


8. Honeycom.ware
(from『OZ』)



「君が望むのなら、しな」という言葉は突き放しではなく、信頼の証だ。ソロではなくてバンド名義で発表されたことに、この曲の真意はある。複雑なリズムワークが織りなすティーンエイジ・シンフォニー。個人が個人のままで連帯できるという可能性と、その尊さについて。


7. 希望
(from『ALL!!!!!!』)

同じ世界は今日もないように
同じツラは今日もいないんだぜ
どうだい?どうしたい?
同じ時を越え
最後なんてないのに自ずからドン引くなって

陽性のパワーポップに乗せてこんな風に歌われたら、そりゃ否が応でもケツは蹴り上げらてしまう。楽曲は粒揃いなのに、音楽的なアイディアに乏しいアルバム内の唯一の名曲。


6. キャノンボール
(from『100s』)

バンド体制で発表された最初の一撃。前作『ERA』と同様、もしくはそれ以上に攻撃的な楽曲だが、バンドというリレーションシップを手にした悦びに包み込まれて極上のポップソングへと仕上がっている。「そこに愛が待つゆえに」というリリックに対する「嘘でも」(歌詞カードには未掲載)というニヒリズムはちょっと余計な気もするが、照れ隠しってことで!


5. 威風堂々(弾き語り)
(from『ジュビリー / 威風堂々』)

『ERA』に収録されているヴァージョンではなくて、よりシンプルなこちらを。余計な装飾が取り払われた分、中村一義のボーカルの鋭さと迫力が際立つ。全てを投げ出してしまうその一歩手前で踏みとどまるためのブルース。嘲りをぶちまける前に、絶望に飲み込まれてしまう前にまだ出来ることが残っている。


4. K-ing
(from『OZ』)

キング牧師に捧げられた100s流の人力ヒップホップ。寄せては返す波のような演奏も、コズミックなリリックも、中村一義のフローも破格に素晴らしい。「今日の本当は今日も『本当』を刺す」という本当。強い想いは、こんなにも静かにばら撒かれる。


3. ここにいる
(from『金字塔』)

孤独な「状況が裂いた部屋」で産み落とされたみんなのうた=アンセム

見えないし、行けない
けど、僕等、今、ここにいる
ほら、ここにいる


NOTHING TO SEE
NOWHERE TO GO
BUT WE ARE HERE NOW
HEY WE ARE HERE NOW


2. ハレルヤ(シングル・ヴァージョン)
(from『ハレルヤ/恋は桃色』)

祝福が人々の頭上に降り注ぐ様を、更なる高みから俯瞰する中村一義の最高到達点。ハードロック調のアルバム・バージョンよりも、ゴスペル風のこちらのアレンジの方が一兆倍感動的だ。Hallelujah!!


1.ジュビリー
(from『ERA』)

思い立ってすぐにスニーカーの紐を結んでいる時には、僕はこの曲を聴きながらデモに向かう事を決めていた。ブレイク・ビーツやサンプリングといったヒップホップの手法を取り入れた「ジュビリー」がリプレゼントするのは「集まる」/「声を出す」という行動だ。デモ、ライブ、パーティー、なんだっていい。人々が集まって声を重ねること。その行為はどれほど遠回りで、時に逆方向だとしても、「祝う」ためにその針を進めている。