いまここでどこでもない

I can't give you all that you need ,but I'll give you all I can feel.

是枝裕和『海街diary』

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2度目となる『海街diary』を観終わった。わざわざ同じ作品のために2回も映画館に足を運ぶという経験は初めてのことだ。音楽でも、小説でも、きっと映画でも、初めて触れたその瞬間から心の何処かに住みついてしまう作品というのがこの世界には存在している。これ迄に僕は北野武ソナチネ』、庵野秀明まごころを、君に』、レオン・カラックス『汚れた血』といった作品に取り憑かれてしまった。この『海街diary』もしばらく、もしかしたら永遠に、僕から離れてくれそうにない。


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おはぎを頬張る幸。ちくわカレーを口に運ぶ千佳。しらす丼をかき込むすず。艶かしく映される佳乃の肢体。生の象徴たる性と食事(と「若さ」の象徴たるすず)のシーンの鮮やかさは、しかし、3度も葬式/法事の場面が描かれる作品中に漂う死の影に抗うような光ではない。一度もスクリーンにその姿を表さないが、確かに存在する幸の同僚「アライさん」は死のメタファーである(すず達の父、幸の患者、食堂のおばちゃん、それらの死も直接的に映されることは執拗に避けられている)。幸は当初「アライさん」を嫌悪していたが、「アライさん」が亡くなった患者に施すエンゼルケア、つまり死が生に触れて飲み込んでゆく所作を目の当たりにすることで、徐々にその認識を改めてゆく。映画『海街diary』において、死と生は対立するものではない。幸は「小児科医の妻」であることより、ターミナルケアにその身を投じることを選択する。側に寄り添うことで死の恐怖を/痛みを緩和する看取りという行為。生活を共にすること、思い出を重ねること、心を通わせること。それらはどれも死への道のりを伴走する「看取り」のアナロジーとして機能している。


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ラストシーン。多くの思い出がつまった食堂の主人が亡くなり、葬儀を終えた四姉妹は海へと向かう。喪服姿の幸、佳乃、千佳。そして制服姿のすず。彼女たちとすずとの間でこんなやり取りが交わされる。

「まだまだ子供ね」


「お姉ちゃんに比べたらね」


明確に引かれている生と死の境界線。幸は手を伸ばし、慈しみを込めてすずを「そちら側」へと引き寄せ、姉妹達は寄り添いながら海岸を歩いてゆく。そのシークエンスが『海街diary』という映画を最も端的に象徴している。死の影が生へと伸びる瞬間。しかし、何も恐れることなく。