いまここでどこでもない

I can't give you all that you need ,but I'll give you all I can feel.

中村一義

たとえ年に一回、数年に一回しか聴かなくなっても、ずっと心の奥の方で鳴り続けている音楽が誰にだってあるはず。

僕にとっては中村一義の『太陽』というアルバムがそんな存在です。

太陽

太陽

  • アーティスト:中村一義
  • ユニバーサル ミュージック
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『太陽』は1998年にリリースされた彼のセカンドアルバムです。『金字塔』と『ERA』という良くも悪くも完成度の高い大作に挟まれたこの作品の評価というのはあまり芳しいものではありません。最近でこそ田中宗一郎さんの熱いプッシュにより「知る人ぞ知る傑作」というポジションになりつつありますが、やはり彼のディスコグラフィ内では無視されがちな作品です。

小沢健二がファーストアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』をリリースした時のミュージックマガジンのレビューは「やりたい事は分かるが体力不足」というセンテンスで締めくくられてました。この文章やレビュー自体には何ら愛情は込められていませんが、僕は『犬』の魅力をよく表していると思う大好きな言葉です。そして「やりたい事は分かるが体力不足」という言葉は中村一義の『太陽』にもよく当てはまります。

この作品を語る際に「日本音楽史上屈指の傑作!」といった大仰な煽り文句が似つかわしくないのは『太陽』を愛する人には分かってもらえると思います。しかし、それでも僕はこのアルバムは日本で産まれた/日本でしか生まれ得なかったとんでもない大傑作だと思っています。いつだって僕の心のベストテンに居座ってくるニクい名盤です。


『太陽』というアルバムはそのタイトルとは裏腹にくすんだ空を思わせるぎこちないブレイクビーツで幕を開けます。「レディーボーデン最近見ないって」という意味不明の愚痴から始まる「魂の本」、かつて博愛を謳い世界を肯定した中村一義の姿はそこにはありません。


「そんなのない」って、そうだっけ!?もう…。ただの地球で??
「なんにもない」って聞いたって、もう、あんま関係ない冗談、わかんないからね。
(魂の本)


壮大な物語の後に続く日常。それはどこか苦々しく歯切れの悪いものです。『金字塔』がアニメのテレビ版だとするならば、「主題歌」は感動的な劇場版で『太陽』はその後日談です。かつてのヒーローが掲げた理想は現実色に染まり、大志は揺らぎその隙間からシニシズムと虚無が顔を覗かせます。

僕らの影に光が降りるわきゃ、ない。
(あえてこそ)


最終回予告なんて、僕等はとうに知ってる。
(再会)


もちろん中村一義は安易に敗北主義に陥るようなミュージシャンではありません。このアルバムには彼の奥さんである「早苗さん」の存在が大きく関わっています。彼が『太陽』で描ききろうとしたのは「他者」というあまりに巨大な存在の希望/絶望です。『金字塔』の構図は「僕対みんな」でしたが、『太陽』においては「魂の本」や「笑顔」は例外として「僕対君」の構図の楽曲が大半です。

そして、見つけられたものは、答えじゃない。
二人で泣きわめいたり、二人で笑い合う日々さ。
(ゆうなぎ)


君は強さで晴れを呼び、僕は弱さで笑わせる。
それを遠くで見りゃ、一個の点で。
(そこへゆけ)


同時に「君」というあまりに謎めいた存在は時に「僕」を苦しめます。その事実はこんな諦念となり歌われています。

「人を笑わせんのも、泣かせんのも、人じゃないの?」
(生きている)


思わずU2の名曲「with or without」で歌われた「君がいてもいなくても、僕は生きてはいけない」というパンチラインを連想させるこの歌詞が『太陽』というアルバムを象徴していると僕は思っています。

このアルバムは「春」「夏」「秋」「冬」というインタールードを挟みながら進んでゆき、終曲「いつも二人で」に辿り着きます。危うさを孕みながらも一歩一歩足を踏みしめてゆくような覚悟に満ちたピアノの美しさに導かれ、最終的に中村一義は他者と共にいることを選択します。その姿に彼も愛するあるアニメの対話を僕は思い出します。

「希望なのよ。人は互いに分かり合えるかもしれない、ということの」


「だけどそれは見せかけなんだ。
 自分勝手な思いこみなんだ。
 ずっと続くはずないんだ。
 祈りみたいなものなんだ。
 いつかは裏切られるんだ。
 僕を、見捨てるんだ」


「でも僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは、本当だと思うから」


(劇場版新世紀エヴァンゲリオンまごころを、君に」より)


彼が果てにみつけたものは他者という希望も絶望も運んでくる存在を受け入れ、共に生きてゆく、ということでした。それこそが人間に巣食う虚無を晴らす唯一のものである、と。



過ぎる今が思い出なら、
いつも二人でいれるように。
(いつも二人で)


『太陽』というアルバムはこんな風に慎ましやかで感動的なエンディングを迎えます。


しかし、このアルバムにはそんな穏やかさからはみでる強烈な何かが紛れています。「生きている」。もしこの曲が収録されていなければ、『太陽』はこんなにも熱烈に人を惹きつける作品にはならなかったかもしれません。

体力の限界をはるかに振り切ってなお、すべてを祝福しようと暴力的なまでに肯定のフィーリングを鳴らすギターとホーン、そして彼の声。

そうだ、過去、未来も越えて、列車は走るよ。
体が錆びてたって、そこで、笑って会えるようにと。


その祝福を鳴らすのは肉体ではなく、命とか魂とかそういった名前で呼ばれるものです。それらのメタファーとしての「列車」。中村一義が敬愛するブルーハーツの名曲「TRAIN TRAIN」と同じ比喩です。

「人を笑わせんのも、泣かせんのも、人じゃないの?」
そんなんで、なんかもう、列車停めて…外へ…。


その比喩が分かれば、先にも挙げたこの台詞がいかに深い絶望をもって吐かれた台詞であったのかが分かります。しかしそれでも列車は満身創痍の自分を裏切って走り続けます。

生きている。生きてゆく。

みんなを待つ誰かや、みんなが待つ誰かも…、出会えるといいな。


列車は走るんだ。


理性や善悪を超え清も濁も巻き込んで走る列車。その列車の軋みをそのまま音楽にしたようなこの曲は『太陽』を更に豊かで壮絶な作品に昇華させています。まるで虚無の海に浮かぶ光のように。


『太陽』の魅力はまだまだたくさんあります。「ゆうなぎ」の感動的なモノローグ、「そこへゆけ」でサラッと歌われる仏教的な生命観、「歌」でみせるシンガー中村一義の真骨頂、「笑顔」におけるブライアン・ウィルソンへの敬意、アルバムタイトル「太陽」の意味、etc...語りたいことがたくさんありすぎて困ってしまいますが今回はひとまずここまでにしておきましょう。


『太陽』がみせてくれる光景はどこかでみたことがあるけれど、なかなか現実では出会うことのできない、まさ白昼夢のような光景です。そんなデイドリーム(とビリーバー)を切り取ったこんな歌詞でお別れしたいと思います。

雨は上がっているのなら
赤が青に変わるのなら
あの影も四季に溶けるなら
傘は置いて行こう。
(笑顔)