いまここでどこでもない

I can't give you all that you need ,but I'll give you all I can feel.

音楽雑誌スヌーザーが僕らに残してくれたもの (Random Access Memories)

かつてスヌーザーという音楽雑誌がこの国にはありました。元ロッキングオンの副編集長、現在はthe sign magazineのクリエイティブ・ディレクターを務める田中宗一郎という人が責任編集する形で1997年にスタートし、2011年に終刊となるまで足掛け14年間全国の書店で普通に買うことができました。「ゼロ年代」という時代に音楽を熱心に聴いていた人なら、その存在を知らない人はまずいないかと思います。とても素敵で、とても因果な雑誌でした。タナソウという愛称で知られる名物編集長をはじめ、個性的なライター陣による愛憎が入り混じりすぎた文章の数々は、読者を戸惑わせるだけでなく、時にアーティストとの舌戦にまで発展しました(最も有名なのは中村一義との一件でしょうか)。


音楽雑誌のライターでありながら、彼らの音楽に関する文章には一見音楽とは全く関係がなさそうな政治や文学や身の上話や講釈が混じり、例えば「グローバリズム」や「ジュビリー2000」といった横文字が紙面上で踊っていました。もし僕がスヌーザーに出会っていなかったら、多くの素晴らしい音楽はもちろん、チョムスキーやルイ・フェルディナン・セリーヌとの出会いは少なくともずいぶん遅く、そして困難なものになっていたでしょう。複雑にこんがらがっていた彼らの文章が「ポップ・ミュージックというアートは様々な要素を意識的/無意識的に内包している」という(雑誌としての)ステートメントの象徴であったように思います。そんなスヌーザーがくたばって、もう4年。


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スヌーザーという雑誌の素晴らしさはどこにあったのでしょう。それはポップ・ミュージックの歴史はアーティスト/ジャーナリズム/オーディエンスというトライアングルが推し進めてゆく、という理想の下で彼らなりの「正史」を編纂したという一点に尽きるのではないかと僕は思います。「俺リアル」という極めて主観的な視点と、「ポリティカル・コレクト」という極めて客観的な視点。数多の個人ブログのように「俺リアル」に陥ることも、ロッキングオンのようにポリティカル・コレクトに尻尾を振ることもなく、タイトロープを渡るように慎重に大胆に歴史を紡ぐこと。そのバランス感覚こそ音楽メディアとしてのスヌーザーの最大の強みであり、そしてその試みの象徴が毎年発表された「年間ベストアルバム」という企画であったことは言うまでもありません。



先日、日本でもローンチされたApple Music。この素晴らしきサブスクリプション・サービスのおかげで、僕達はポップミュージックの膨大なアーカイブにかなり自由にアクセスすることが可能になりました。でも、いきなり大海に放り出され「自由に泳いでいいよ」と言われても、少しばかり気が遠くなってしまったのは僕だけではないでしょう。何を聴けばいいのか分からずに結局は自分のiTunesのお気に入りのプレイリストに落ち着いてしまう、それは悪いことではありません。少しばかり退屈ですが、安心できる「ホーム」。役割を終えたアーティストも、最後には示し合わせたようにその場所へと帰っていきます(ニール・ヤングボブ・ディランのような例外も存在しますが)。でも、甲本ヒロトは僕達をこう挑発します。

見てきた物や聞いた事 今まで覚えた全部 
でたらめだったら面白い そんな気持ち分かるでしょう?


情熱の薔薇/The Blue Hearts


ポップ・ミュージックは僕らの「ホーム」を破壊する、そんな危険な力を持っています。常識を揺さぶり、価値観を転倒させ、見知らぬ地平へと引き摺り出すこと。僕は14歳の時、スヌーザーが巡り合わせてくれた中村一義の「主題歌」という曲にポップの洗練を受けました。歴史という縦の繋がりと社会という横の繋がりのその交点以外の場所に「僕」という存在はある。あの朝以降、僕にはそうとしか考えられなくなってしまいました。宙ぶらりんに切り離されて不安だけど、とても自由な場所に立たされてしまいました。そんな喜びにも似た受難。

絶対ウソじゃない 千年後の僕も僕だ
絶対アセらない 万年前の君も君だ


主題歌/中村一義


スヌーザーが僕達に残してくれた14年分のベストアルバムのリストは、そんな魅力的なポップ・ミュージックの大海を航海するのにとても心強い地図になってくれるのではないでしょうか。そこには14年分のポップ・ミュージックの歴史が確かに刻まれています。ダフトパンクが2014年にリリースした『Random Acsess Memories』という作品があります。トーマとギ=マニュエルが幼少から夢中になってきた伝説的ミュージシャンをスタジオに招き、サンプリングではなく実際に(しかもヴィンテージ楽器で)演奏してもらうという、「コロンブスの卵」な発想で制作された大傑作です。そんなアルバムのタイトルの頭文字が「書き換え可能なメモリー」を意味する「RAM」になるのは単なる出来すぎた偶然でしょうか?現在という地点からアクセスされることで、過去は絶え間無く書き換わり、未来は創造されてゆく。僕には2人からのそんなメッセージに思えてしかたありません。僕達の手にはYouTubeApple Musicといった高機能なモバイル・タイムマシンが握られています。未来は僕らの手の中。アクセスすべき大切な過去のいくつかが、以下のリストに含まれていることを祈って。


スヌーザーが選んだ1997年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ1998年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ1999年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2000年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2001年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2002年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2003年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2004年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2005年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2006年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2007年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2008年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2009年度ベストアルバム10

スヌーザーが選んだ2010年度ベストアルバム10


冒頭のリード文は予定していなかったのですが、単なる羅列に終わってしまうのはつまらないと思って後から追加したものです。サラッと読み飛ばしてもらって構わないのですが、僕なりにポップ音楽の歴史の「流れ」(大筋はスヌーザー史観に則ったものですが、所々「書き換え」しています)のようなものを感じてもらえるように意識したつもりです。リストを貫くキーワードは「Every new beginning comes from some other beginning's end」。参照先はとあるバンドの一節です。


最後に。僕がスヌーザーから教わった、とても大切なことがあります。それは「断定」を恐れないこと。そしてそこから生まれる「対話」を楽しむこと。きっとこのリストを読んで納得できない人/意義を唱える人がたくさんいると思います。だって、ここにはハイスタもアジカンエルレガーデンも登場しなければ、ジェイZもレッチリもコールドプレイも登場しないのですから。それでも、誰かの「それ間違ってる!」という声に耳を塞いだり「これはあくまでスヌーザーの一読者としての意見だから」とか「まあ歴史は人それぞれだよね」みたいなダサい言葉を吐くことを、僕はしないでおきたい。「対話」を通じて、どんどん書き換えられたい。揺さぶりをかけてほしい。今日も世界中のどこかで、誰かと誰かがビートルズのベストアルバムについて喧々諤々な対話を繰り返していることでしょう。「やっぱ『ホワイト・アルバム』が最高なんだって!」「はあ?あんな散漫な2枚組が?『リボルバー』ってアルバム聴いたことある?」みたいな衝突を。そんな場面を想像したとき、とても楽しそうな表情をしている2人しか僕には思い浮かばないんです。